JIA長野県クラブ「代表日誌」平成二十八年 師走増刊号
2016年12月05日
JIA長野県クラブ 山口代表より「代表日誌」増刊号が届きました。(2016年12月5日)
12月3日
今日は久々に自分の時間が取れたので、発刊されたばかりの川上恵一さんの新著「住み継ぐ家の物語II」を読んだ。
川上さんは縄文人と評されることがあるそうだ。私の学生時代の建築史の授業はほとんど近代建築から始まった。それ以前はどうでもいいという扱いだった。戦後“近代建築でなければ建築に非ず”という時代が長く続いたからだ。近代建築運動は西洋近代主義に基づく建築分野の思潮なので、封建時代を遺棄し新しいものこそが素晴らしいという革命思想に基づいている。言葉を変えれば「進歩主義」である。
“勾配屋根はモダニズムではない”と言われる時代に川上さんが“民家こそがその地域のオンリーワン”と言えば、インターナショナル・スタイルを標榜する近代主義信奉者から攻撃されるのは必定だ。アナクロニズムとか時代錯誤と揶揄される所以である。
川上さんは私が会社務めをしていた時の先輩だ。若い時代の先輩は学生であれ会社員であれ絶対的な存在である。川上さんに右を向けと言われれば右を向き、左を向けと言われれば左を向いてきた私だが、あまりに乱暴な発言に、僭越にもさすがにどうかと思うこともあった。
川上さんのお姿は、「地域性」を盾に、「時間軸」を矛に「進歩主義」という名の亡霊(その当時から現在に至るまで、ベルリンの壁のように高く聳えていると考えられていた)に突入する、言わばドン・キホーテのように見え、畏敬の念を持って接していたように思う。
初めは3割ぐらい正しいと思っていたが、年を重ねるうちにだんだんその割合は増え6割まで賛同できるようになってきていたが、この著書を読んで7割か7割半は正しいと確信した。混迷を極める現代おいて7割以上の支持というのは10割と同義である。私もようやく建築が分かってきたようだ。今日はサンチョ・パンサのような気分である。
改めて言うまでもなく建築とは空間で構成された3次元の構築物だが、川上さんは時間も加えて4次元のものと考えなければならないと言う。時間軸で建築を考えると古いものほど貴重であるという考えにたどり着く。私は1970年代に建築を学び始め40年以上が経過したが、その時々の話題をさらった建築で現在も尚評価され続けているものがいかに少ないことか。JIAには25年賞という表彰制度があるが、川上さんは更に50年、100年と使われて行くものが建築であると仰っているのである。新しくてセンセーショナルな話題を振りまいたアバンギャルド建築が素晴らしいとはとても言えないのだ。
また「用と美」という考えから、建築は使われてこそ価値があると仰っている。古い建築がそのまま在ることが重要なのではないということだ。JIAの保存運動でも垣間みられることだが、著名なモダニズム建築の改修にあたって、変えるなと主張する人々がいる。保存問題大会を長野・須坂で開催したときに長野県クラブで県内の遺したい建築調査を行い、各地区ごとに選んでパネル展示したが、私が作ったペイネ美術館(旧レーモンドの夏のスタジオ)のパネルを見ながら“これは保存ではない”と言っている人たちがいた。私は使われ続けることが重要だと考えこの建築を選んだが“場所も用途も変えるな”という訳である。巨匠の名作品と無名の人々が造った民家と一緒にするな、という声が聞こえてきそうだが、建築は博物館に飾る遺構ではないのである。
この本の中で章が割かれている「風土」、「再生」、「風景」は全て地域と時間軸に関した言葉だ。川上さんは郷土を深く愛している。そして民家はその土地の人々と風土が育んだもので、長い時間をかけて蓄積された英知の結晶だと云い、維持保全と共に今の新しい技術を生かして新たな命を吹き込む行為が「民家再生」だと定義されている。
今や反グローバリズムの時代である。BREXITが起き、アメリカではトランプが大統領になるご時勢だ。インターナショナル・スタイルとかグローバリズムを現代のわが国の住宅造りに当てはめると、忠実に実践しているのはハウスメーカーだということになる。北海道から沖縄まで、国籍不明の同じ家を建てているではないですか。“民家はオンリーワン”と真っ向から対立している。
同様に、オハジキを適当にばらまいたようなプランや床をうねらせるような、あるいは可笑しな洞窟みたいな格好の建築を新しいと言ってきたのがわが国の言論空間だったが、そのようなものがもてはやされる時代は終わったのである。旧態依然としたリベラリズムに凝り固まったエスタブリッシュメント(と思っている人たち)は(「市民」ではなく)「国民」から支持されていないことに気づいていないだけだ。
日本の建築思潮は明治維新から150年を経てようやく反転し、平出が生んだ奇才は時代の最先端に立ったのである。