「つくりの甘いもの」を考える
2015年10月15日
「つくりの甘いもの」を考える(2015.10.15) 君島弘章(君島弘章建築設計事務所)
今長野市で築30年ほどの町屋に暮らしておりますが、 僕は築100年以上の古い民家に生まれ、そこで育ち、僕の弟や母は、今もその民家で暮らしています。その実家は茅葺屋根で柱や梁は素朴で、釘などは使われていません。叔父さんが煙草をふかしても自然に換気され(笑)通風がよく、夏涼しく、冬は寒い家です。日本人は繊細だといわれているが、民家に見られるのはそういう繊細さではなく「つくりの甘さ」のように思われます。
町屋や茶室などの芸の細かさではない「丈夫さ」や「武骨さ」「つくりの甘さ」が民家にはあります。若いころ欧州建築冒険に行った際、生活用品など身近なものも、その質感や風合いを重視したものが多く目につきました。時間を超えていくタフさが最期は美しさで完結するビンテージ品には驚かされました。本当は日本でも昔はお家芸だったはずのものだが、いつのまにか日本はプラスチック製品や家の壁までもビニールに取って代わられていたので、この違いはとても印象深く心に残っています。
いまだに周りを見渡すと、その消失感は健在です。これは日本人特有の細部へのこだわりが、逆に、味のある「つくりの甘いもの」の存在を許さなくなってしまった結果なのではないかとも思います。籠ひとつとっても北欧の太い編みこみのものとは違い、日本のものは細く繊細なものが多く、壊れやすいのでいつのまにかビニールひもに取って代わられてしまった。(日本に古くからある葡萄の蔓で編んだ籠などは高価ですが素晴らしいものです。)これは、細く繊細なモノが悪いのではなく、用途に合わせ、御洒落に大切に使うべきものは繊細に、普段使いは頑丈なモノをという使い分けの問題でもあります。その使い分けが出来る選択肢が近代日本の市場になかったのが、ビニールの編み物があふれる結果を招いたとしたらとても残念です。
欧州のきわめて大雑把につくられた籠は近くで見ると雑だが離れると実に美しく、かつ丈夫に出来ています。こういった「つくりの甘さ」という意図的な美意識はそもそも日本も持っていたものでした。最近僕は、味わい深い「つくりの甘さ」を、もう一度、見つめなおすのもよいのではないかと思っております。そこには自然に寄り添って力まない風景に溶け込んだ姿があるように思えます。