広瀬先生の思い出
2012年03月07日
「広瀬先生の思い出」(2012.03.07) 勝山敏雄(かつやま設計工房)
私の恩師の広瀬先生が2月7日に亡くなられました。享年89歳。非常に残念です。
高校を卒業し大学に行き、何もわからず建築を勉強しました。私が建築を始めて最初の師が広瀬鎌二です。今の建築にとって偉大な功績を残された方であると思っています。一般的には知られていませんが、今一般的に使われている軽鉄の基本寸法の企画に携わり、今の基本モデュールはその当時のものが使われています。SHシリーズは鉄骨の住宅で広瀬先生の代表的な作品群です。
ひとりの建築家が武蔵工業大学の教授として学生に建築を教える立場になりました。ある時から鉄骨から木造の広瀬鎌二になりました。鉄骨でも木造でも基本的な考え方は全く変わっていないと僕は思っています。言葉で表すとすれば標準化・企画化等ということは先生の共通した認識であったと思います。そしてSH1でも木造で建てた自邸の肆木の家でも見せた絶妙のプロポーションは広瀬鎌二の持つ、形に対する感性の象徴でもあるように思えます。モデュールに関すること、様々な事象に関しての分析の手法、本物を見なさいといつも言っていたこと、等いま様々ことが脳裏に浮かびます。学生時代広瀬研究室に所属し、先生からいろいろなことを学びました。広瀬先生との思い出を少し書きたいと思います。
私が大学2年の時、自邸である肆木の家を鎌倉に建てていました。研究室の先輩に呼び出され、大学に集まり車で鎌倉まで、七里ガ浜の海岸で昼過ぎまで時間をつぶし、昼過ぎから広瀬邸へ。いわれるままに先輩とともに自邸を作りました。楽しい時間を過ごさせてもらいました。釘を1本も使わないで建てているのだと聞かされました。後で複雑な仕口によって組み上げられた木造の架構図面を見せていただきました。SH-1建設の時、どこの建設会社も工事を請けてくれず、サッシ屋さんが請けてくれて完成した経緯がありますが、自邸でも同じようにどこの建設会社も受けてくれず結局研究室の学生でつくることになりました。
先生は鎌倉から車で学校に通っておられましたが、道が一番空いている時間に学校に来るのだといっておられました。昼に鎌倉を出るのが学校に着く時間が一番短かったようです。よって午前中の先生が教壇に立つことはなかったのではないかと思います。研究室のゼミは必ず夜。出前を取って先生と夕食を済ませた後に、ゼミというのが定番でした。国宝建築を見て回るゼミ旅行は結構楽しい旅行でした。いつも言われていたことは「ホンモノ」を見なければいけないといっていました。そして「ただ見ても意味がない」と。ゼミの中心はゼミ旅行のための基礎資料を作ることでした。国宝建築の修理報告書を読み、建物の構法について資料をまとめました。まとめた資料を片手にゼミ旅行に行きました。あの資料は今どこにあるのかわかりませんが貴重な資料を研究室で作っていたと思います。ゼミ旅行は車を何台も連ねていきました。先生の愛車グロリアは学生が交代で運転しました。助手席のシートを倒し、先生は後部座席に座り足を前に伸ばして座るのがスタイルでした。タコメーターを見ながらシフトアップ。前方の信号が赤になったらニュートラル。ガソリンを満タンにするたびに燃費計算。広瀬流の燃費の良い運転手法でした。
広瀬先生の受け持つ「設計製図1」は大学1年時の授業ですが、出題は院生が行い、4年生が班に分かれ1年生を指導するというスタイルをとっていました。授業は午前中から始まるのですが、図面が描き終わるまで帰れないというもので、多くの学生は深夜までかかり、先生にチェックしてもらうってやっと帰宅。今では考えられない破天荒な設計授業でしたが印象が強く残っています。
私の結婚式にもむりやり長野まで来ていただき主賓で話をしていただきました。(挨拶が一時間以上にもおよび周りにはかなり不評でした。)3年ほど前でしょうか如学会の企画の旅行で長野に来られた時が先生との最期です。仁科神明宮で先生とお会いしました。足が悪く車いすでの移動でした。しかし建築の話は20年前と変わらず、いろいろなことを説明していただきました。時代背景、年代、構法的なことなど内容は大学の授業を受けているようでした。 いま、もう一度先生に学んだことを自分なりに整理して、自分の今後の人生に活かしていきたいと思います。本棚から伝統のディテールと重源の本を出してきました。