JIA長野県クラブ「代表日誌」2018年1月
2018年01月31日
JIA長野県クラブ 山口代表より「代表日誌」2018年1月が届きました。(2018年1月31日)
1月9日
新年の挨拶廻り
恒例の県庁への新年の挨拶廻りを西澤、藤松両副代表と次期代表が内定している荒井さんと共に行った。多いときは5カ所ほど廻ったこともあったが、今年は建設部 建築住宅課と林務部 信州の木活用課 県産材利用推進室の2カ所を訪問した。
岩田建築監、丸山室長、お二人とも不在だったが「信州の建築家とつくる家13集」を手みやげに、会の活動を報告させていただいた。諸先輩方が築き上げてきた行政との信頼関係を荒井さんにバトンタッチすることができ、とても安堵した1日でした。
1月15日
第5回事業委員会
久しぶりに事業委員会に出席する。今日は第12回建築祭の詳細な打合せである。
まず会員作品展(宮本忠長展)の会場レイアウトの平面図を担当の野口さんが作成されたので、それをベースに検討を重ねた。映像コーナーは入口正面奥で再レイアウトをすることになった。
次に轟さんが作成した会場のレイアウトを元にコンクールの会場設営の検討をする。今年は作品数が多く、表彰式は展示テーブルを移動して行うことになった。
引き続きタイムテーブルの確認と担当者を決める作業を行ったが、時間切れとなり最終決定は次回2月6日に持ち越された。
私にとって最後の審査員を務めるコンクールが、いよいよ間近に迫ってきたことを実感する一時でした。
第4回幹事会
11月に続いて第4回の幹事会が開催された。
建築祭について北村事業委員長と長島交流委員長から説明があった。選定議員会から経過説明があり、次期副代表と監査役の人事が発表された。支部提出の2018年度収支予算書については私が説明した。内容は12月の代表日誌で説明した通りである。
2018年度 通常総会のタイムスケジュールを検討し、会員集会の内容は10月に訪問した宮城県の震災復興の報告会になっているが、所要時間は今日は欠席した発表者の丸山監査役と相談して決めることになった。
その他報告事項の後、19日の支部「新春の集い」には誰も参加できないことと、「リフレッシュセミナー」は竹内祐一さんに決定した。3月の新潟地域会の学生卒業設計コンクールの審査員は、川上前代表に行っていただくことになった。竹内さん、川上さんよろしくお願いいたします。
最後に入退会状況と運営費納入状況が発表され、未納者には手分けをしてお願いすることになった。
1月17日
第29回支部災害対策委員会
今年度第5回の委員会が開催された。
2019年度まで見据えた委員会の活動スケジュールについて、松下委員長から説明があった。大きな流れではJIAのDCP(BCP)マニュアル改訂のスケジュールと、2018年度のJIA東京大会に向けた「若い会員向けの東京都でのコンペ」案の状況説明があった。コンペは2016年度の第1回支部大会でも行われたが、若い会員を獲得する目的の大会の目玉の1つであり、JIAのこれからの重要施策の柱である。
BCPの見直しに関しては、行政では現在考え方がDCP(地域継続計画)に移行しているそうで、JIAでもBCP(業務継続計画)の改訂を機会にDCPに移行する方向で委員長が案を練っている。委員会の度にブラッシュアップされているが、現状の内容を委員長が説明された。
その他、JIAの公益事業助成金の申請の件について、郡山副委員長から東京都の災害総合支援機構総会の報告があった。私の方からは栃木地域会のWG委員の件を報告し、地域会の意向を検討していただくよう要請したことを説明した。
次回は3月14日(水)に行われる。
1月18日
本部災害対策会議
第16回災害対策全国会議が開催された。
昨日と同じDCPマニュアルと助成金申請の説明を松下委員が行い意見交換が行われた。DCPは東北の経験が生かされることになる、今日の会議は参加者が少なく関東と東北以外の意見を聞くことはできなかった。助成金は財務委員会が決めるということと、最近は申請額の半分程度の支給が多いことを私が報告した。
災害対策全国ネットワークに関しては私が、本部事務局に対して個人情報の問題を早急に結論を出さないと1mmも前に進まないことを申し上げた。
福島の仮設住宅をネパールで再利用する計画の現状が芳賀沼東北支部委員長から報告があった。JIAの寄付金の扱いへの意見を求められたが、後日松下さんと松本議長に私見をメールで伝えた。
東海支部では三重県と水害の協定を締結し、去年の台風被害の被災度3次調査の依頼があったことが報告された。松本議長から副議長を設ける提案がなされ、松下さん、芳賀沼さん、九州の水野さんの3名が就任することになった。
1月19日
新春の集い
2014年の代表就任以来参加していた支部の行事である「新春の集い」を欠席した。仕事で都合がつかなかった為だが、私は支部役員として参加していたつもりだったので、役員を退任したのでまぁいいかという気持ちがどこかにあったかもしれない。この辺りに、代表職が残りわずかになった気のゆるみではないかと指摘されれば、そうかもしれないと 後ろめたい気持ちがないわけでもない。
1月27日
今月はあまり書くこともなかったのでJIAとは全く関係ない、100%プライベートのことを書いてお茶を濁そうと思う。
以前オーディオのことを書かせていただいたが、自分の頭の中に占めるオーディオの割合は実は大したことはなく、物心ついた頃からほとんど心を奪われていたのは“音楽”である。とにかく小さな頃から音楽を聴くのが好きで、“不治の病”と言うしかない常軌を逸した人生を過ごしてきたと言えるでしょう。オーディオ好きもその派生で起きた現象である。
山の中で生まれ、母の実家の半径150m以内にその実家も含め兄妹の家が5軒あるという環境で、我が家は家業に忙しく親は全く相手をしてくれなかったので、伯父・伯母の家を渡り歩いて育った。お袋は兄妹の中でも一番年下だったので従兄弟達は皆私より年長で、その従兄弟達が皆洋楽好きで小遣いで買ったドーナツ盤を持ち寄ったり、ラジオの洋楽番組を皆で聴く環境で育った影響が強かったと思います。私の世代では珍しいのですが、ビートルズはリアルタイムで聞いていました。
初めて自分の小遣いでレコードを買ったのが小学校3年で、4年になってからはそれまで毎日10円貰って駄菓子を買っていたのをまとめて400円を貰い、それで当時330円だった洋楽のシングル(ドーナツ)盤を毎月のように買って聴くという生活が始まった。本人はそれが当たり前の生活だったが、自分の子供が小学生になってその異常さにようやく気づいた次第である。我が家の子供達はおもちゃや駄菓子や恐竜には執着するが、レコードやCDには全く興味を示さなかったのです。家内には結婚前にそのことは断っている。一緒に暮らすようになって驚いたのではないかと推察するが、今までそのことで文句を言われたことがないので大いに感謝しています。
高校を卒業して上京した際、それまで聴いていたロックのLPを全て売払い、アメリカの黒人音楽のブルースにのめり込んだ。20歳のころから当時の黒人の流行歌だった“SOUL”も聴き始め、20代の後半からはほとんどソウルしか聴かなくなり現在に至っている。
ソウルという音楽は1960年代半ばから80年代初期までのアメリカ黒人のメインストリームの音楽の総称(ビルボードやキャッシュボックスなどのヒットチャートの名称)で、時代や地域で様々なスタイルがあるが、私が好きなのは“Deep Soul”や“Southern Soul”と言われる分野である。60年代から70年代半ばまでに録音されたものが特に好きで、いまでも聴いているのはほとんどその時代のものです。
私は自分のことは“ソウル・ファン”か“ソウル・マニア”くらいにしか考えていないが、世間では“コレクター”と呼ばれているようである。ソウルに関しては東京では1970年くらいから、曲を解説しながらレコードをかけるレコード・コンサート、いわゆる“レココン”が頻繁に行われている。現在でも毎月のように行われていると聞けば、驚かれる方もいるのではないでしょうか。昔に較べれば数は大分少なくはなったが、熱心なファンは今でもいるということです。
そのレココンのレコードを廻す側、つまりDJを2000年頃から頼まれて ほぼ1ヶ月置きにやっていましたが(紹介した曲は有に4000を超えていると思います)、2013年11月を最後にすべてお断りしていました。それは両親の介護を家内に任せっきりにしていたことと、JIA長野県クラブ代表をお受けすることが決まり、それどころではなくなったからです。この4年間何人もの方からDJを頼まれましたがすべて断っていました。
どんな状況になっても DJはもう止めようと思っていたのですが、何度断っても懲りずに声をかけてくれる二人の方がいて、その要望に応えるかたちで、去年の11月にその内の一人の友人主催のレココンに参加しました。テーマは“Southern Soul”-サザン・ソウルつまりアメリカ南部録音の曲ばかりを聴くというテーマのレココンでした。私は4人のDJの一人として3番手に登場し、トータル70曲の内25曲を紹介しました。
1回引き受けてしまったので、もう一人の友人の依頼も受けざるをえなくなり、今日復帰第2回目のレココンを行いました。
今日のDJは私一人で、3時間以上に渡って130超の選曲の中から自分で選んだり、リクエストに応えたりしながらシングル盤で60曲くらいをかけました。
テーマはニューヨークに本拠を構える“Atlantic”レーベルに残された曲の数々を聴くというものです。アトランティック・レコードがソウル・ミュージックに残した足跡・功績は非常に大きく(一般的には60〜70年代のロックで知られています)、ベテランのソウルファンなら大抵知っている内容にも関わらず、お店のキャパを超える20人ものファンが集まってくれました。さながらソウル同窓会の様相でした。フィナーレでサザン・ソウル名曲中の名曲James Carrの“Hold On”がかかると大合唱が起こり、大盛況の内に終えることができました。40年以上レココンに行っているけど、皆で歌い始めるというのは初めての経験で、驚きとともに非常に嬉しく感じたひとときでした。
好評につき6月と10月に同じ店で 私のワンマンDJのレココンが決まってしまいました。テーマは60年代初頭から70年代中期までのニューヨーク録音のアーリーソウルとディープソウルが中心で、2回に分けて行うというものです。これから200曲以上を選び出す作業に取りかかることになります。また今日は時間が足りなかったので、17時から21時までの4時間で開催されます。今日の会場には自身で定期的にレココンを開催している方が複数いらっしゃって、その方々からも依頼を受けてしまったので、今年からDJ完全復帰ということになりそうです。