JIA長野県クラブ「代表日誌」2019年 6月

公益社団法人 日本建築家協会 関東甲信越支部 長野地域会

JIA長野県クラブ「代表日誌」2019年 6月

JIA長野県クラブ 荒井代表より「代表日誌」2019年 6月が届きました。(2019年 6月30日)

 

6月3日

“信州の木” 建築賞会議 

県庁西庁舎に審査員が集まり建築賞の事前会議が行われました。

 

平成28年度から毎年行われてきた “信州の木” 建築賞が、本年度は 信州の「住まい方」コンクール ~令和元年度 “信州の木” 建築賞~ と名前を変えることに決定しました。

 

それに伴い募集要項も変わり、例年の実例に加えて提案部門が設けられることになり、主催者の長野県としてはより多くの応募を期待しているようです。審査員の我々としては、ますます審査がハードになる事は目に見えており、今からため息が出ます。

 

今回は県産材の使用が義務化されておりませんので、特に実例部門への応募が多くなると予想され、質の低下が危惧されます。JIAの会員の応募が益々重要となりますので、皆さんよろしくお願いします。

 

6月7日

15:00~ 仕事を語る会

本年度初の仕事を語る会が開催されました。今回は丸山幸弘さんと吉川一久さんの発表です。

 

丸山さんは徹底的に構造計算を行いながら行った、古民家の改修の実例について発表してくれました。土砂災害危険区域にあたることを利用して、移転費用を公費で補填すると言う作戦で、十分な構造補強計画を実現した手法は大変参考になりました。過去の実例を参考にした安全ではなく、数値として表せる安全という考え方は、今後の古民家再生の手法となり得ると感じました。

 

吉川さんはセルフビルド住宅の苦労話です。農地転用が降りず、折角作った小屋を基礎も含めて撤去させられた話。建設中の住宅が台風で大破してもう一度建て直した話。穏やかな柔らかな口調のため、悲壮感は全く有りませんでしたが大変な苦労をしたことは間違いなく、施工まで関わることの大変さを思い知らされました。

 

何度も書いていますが、この ”仕事を語る会” は本当に楽しくためになります。一度でも参加して下されば、病み付きになること間違い無しです。是非まだ参加したことの無い方の参加をお待ちしております。

 

 

17:30~幹事会

通常総会後初の幹事会でした。

 

2019年度のスケジュールが決定され、いよいよ2年目の活動が始まります。今年の目玉は、まちづくり委員会の研修旅行をかねた夏のセミナーの開催です。その他ほぼ毎月何らかの行事が開催されますので、月に一度は長野県クラブの行事に参加してみませんか。皆さんよろしくお願いします。

 

6月13日

信州木材認証製品センター総会

ホテル信濃路において信州木材認証製品センターの総会が開催されました。

 

認証センターの総会では、毎年記念公演が開かれ楽しみにしています。今年は伊礼智さんの公演で、演題は『地域材を活かした家づくり』です。伊礼さんは地域の工務店と組んでハーフプレファブ住宅を造っている方で、ご存知の方も多いと思います。

 

建築家として施工会社との関係が近すぎ、いかがなものかという意見も聞こえてきますが、出来上がった住宅の質を見ると高品質のものばかりで、消費者の不利益になっているとは言いがたく、一つのあり方なのだと言わざるを得ません。本人も告白していましたが、地域材を活かすと言っても伊礼さんはそのほとんどが、紀州の山長商店さんの杉と桧を使っています。

 

植林から伐採、乾燥、製材、プレカットまで一貫生産している会社で、JASの資格も取得しています。山長さんには絶対的な信頼を置いており、JAS材であるがゆえに構造計算がきちんとできるとべた褒めでした。逆説的に言うと、その他の地域の材料は使えないと言っているようにも聞こえ、長野県も益々頑張っていかないと信頼される材料生産地となれないわけです。

 

6月25日

まちづくり委員会ソヤノウッドパーク工場見学

 

ウッドパーク内の事務所にて協力会員の星川さんより、工場の概要説明を受けた後、工場見学を行いました。

征矢野建材さんは赤松が松くい虫の大被害にあっている事を考慮して、建材として使用できるうちに多くの赤松を伐採して利用しようと考え、板材を大量生産できる工場を建設したとのこと。

 

なるほど丸太を機械に入れると最後は21㎜厚の板材となり、桟積みまでされて出てくると言う凄い機械に一同ビックリ。続く重ね梁工場の規模にまたビックリ。人件費削減のためとはいえ機械化がここまで進んでいるとは驚きの連続でした。

 

鹿島の中国木材の工場はこんなものではないとのことですから、あごが外れないように今から鍛えておきましょう。

 

 

 

 

 

コーヒーブレイク10

『サイトー・キネン・フェスティバル』

小澤征爾の追っかけを続けた東京時代を終えて、松本に戻ったのが1984年です。ちょうどその年に、サイトウ・キネン・オーケストラ(仮称)が小澤征爾と秋山和慶の呼びかけで結成されました。小澤征爾の恩師である斎藤秀雄の教え子が世界中から集まって、記念のコンサートを開こうというのが始まりです。東京と大阪で行われたコンサートは、世界水準のアンサンブルと大評判をよび ”幻のコンサート” と呼ばれていました。

 

1987年には正式にサイトウ・キネン・オーケストラを名乗りヨーロッパツアーを行い、ここでも絶賛を博します。そのころのブラームスの演奏がビデオで発売され、その集中力に圧倒され なんとしても生演奏を聞きたいと強く思ったのを覚えています。

 

出来栄えに気をよくした小澤征爾が、日本国内に定期的に演奏会が開ける場所を探していると言う噂が耳に入り始めます。漠然と松本に来ないかなと考えていたところ、丁度松本文化会館が出来るタイミングと一致したことで、松本が正式に会場に決定したのです。最後まで対抗馬だったのが奈良市らしく、小澤征爾の要望に答えてホールの設計を変えられたのが松本で、奈良は断ったのが理由だとまことしやかにささやかれています。たぶん奈良の方が先に進んでいて、設計変更が出来ない状況だったのだと思います。でも一番の理由は、小澤さんが大好きな志賀高原が近かったことだと僕は考えています。

 

1992年 サイトウ・キネン・フェスティバル松本の第一回目の公演が開催されました。全てが初めての事ですからチケットの発売方法も明確には決まっておらず、なぜか胸騒ぎがして発売日前日の昼間、藤松さんと共に松本文化会館を訪ねると既に長蛇の列が出来ておりました。

これはまずいと何の用意も覚悟も無く列に並び、そのまま一晩過ごして発売日を迎えました。発売時間の10時には1000人を超えるファンが並び、そのほとんどが買えないという事態になったのです。

 

この様子はテレビや新聞で大々的に報道され、販売方法のまずさを指摘され翌年からは一人1公演2枚までと決められ現在まで続いています。ちなみに1年目は一人12公演全てを買うことが出来ました。事務所を開設したばかりの我々は、全ての公演なんて買うことは出来ません。それでもブラームスの交響曲第1番と始めてのオペラ、エディプス王のチケットを購入して大喜びです。

 

 

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