春になってよかった
2010年01月01日
「春になってよかった」(2010.01.01) 西沢利一(西沢建築研究所)
今年の誓いは 何もない
禁煙はない
禁酒もない
悪口もいわない
いいたい事もいえない
書きたい事は書けない
意味もなく ほゝえんで
なんとなく
たんたんと
むりはしない おそらく
ただ
意志もない
空前絶後の不況に心乱れて寝乱れていま何をしようか。けんちくの本をぱらぱらめくってみるが、わが心に響くものはありゃせん。みんな信じているんだろうか、何故かうっとおしい。とんでもなく世の中はあいまいで、走っている車さえ何を目ざしていそぐのか?その先は何もないですよ、そんな事とはつゆしらず。夜のコンビニの灯がまぶしくって、おもわず入ってみたもののみんなそっぽを向いている品物も人も。おでんのにおいがぷんとして胸やけをさそい、可燃のゴミ箱は腹いっぱいふくらんでだらしなくたたずんでいる。お前ら、捨てる方がゴミに見えてきていいかげんにしろ。ソックスの先が薄くなってきたから買いにいった。よくぼうにしまりがないらしく、いるはいるは土日限定そんなに買ってどうすんだ、脂肪過多は進行中。よく見ると形がガウディーぽい。バルセロナは晴れていた。あの奇跡は今は夢ん中。あんなけんちくつくるヤツはもういない。四角いトーフは元々四角ではなかった。モデルニスモ時代けんちくかはしあわせだったのだろうと思うよ。ラスキンは、けんちくかという独立したしごとは近代のあやまりだといった。しょくにんの集積がけんちくであることはいまもかわりない。松本清張的奥行きは深い淵で思わずぞくっとする。そんなこといったって闇はもう姿を消していく久しい。言葉を発っしたってすぐに消える。まっことこの世は味けない。真夜中、LEDの光をたよりに本をよむ。何もかもがおしよせてきて不安の片隅にあつまる。話しかけていいから、たのむよ小さい頃のことをもう一度。何もかもが不確かで、何もかもが清潔すぎるのに、気持ちは深煎りコーヒーの沈殿滓、苦い。写真は息のにおいがしピーナッツを割る音がした。瞬間を生きる、あゝうらやましい。ロバート・フランクさん、教えてよながく生き続けるひけつを。煙草に火をつけると、安っぽいメロディー。でも男と女の情景がうかぶ、夢のつづきがうかぶよ、明日なんか微妙、夜明けをまつサリンジャーのしゃれた会話。何を知りたいのよ、知らなくてもいいんだよ、めんどうじゃないか、どうせすぐにかわるんだから、宮沢賢治は宇宙で畑を耕した、ジョバンニくんそうでしよう。スーパーでレタスを買った。おばさんがすべてのレタスに手あかをつけていた。となりにあるブロッコリーにも手をのばした。やばい、畑はみずみずしかったというのに。魚のひらきは許せるが、肉のスライスは許せん、元の形がちっともみえんじゃないか。そのうち切り刻んだものしかみえなくなると人間の悲、悲、悲。風呂にはいると、湯気が背中の方から誘ってきた。ボーッとしていると朗読者のハンナが久しぶりだわと寄ってくる。ムフフ、やるなおぬしシュリンクめ。ブレイクにとって想像力は現実であった。想像力は生きる意味と同じである。想像力から生み出されるのはモノでなく出来事がけんちくである、といっている原広司の浮遊感覚がかろうじてけんちくの夢をつないだ。そろそろ夢からさめなければならない。目覚めたとき雲がたかくなっていた。見上げると目の中があたたかい、も一度顔を上げてみると思った以上に青がたくさん。春になってよかった。そのうちどこかへ着くでしょう。